国語教育易行道

国語教育易行道
     序


 此の書を書く爲に、三月三十日の夜玉川温泉に行きました。三十一日・四月一日・二日は、「小學国語讀本と教壇」の手入をして、三日の朝その原稿を東京へ送りました。この日青山君が訪ねてくれました。二人で晝食に一杯飮んで、午後は字を書散らして遊びました。清遊といふのはかうした事でせう。四日青山君が帰って後、私は此の書の第一頁を書いてみました。どうした事か、想が全く涸れてゐます。こんな筈はないと、考へれば考へるほど、想はすくんでしまひます。果は廣い枯野の一端に立ってゐるやうな感をさへ件って、自分ではどうにもならなくなりました。国語教育易行道、芦田恵之助著と書いては、幾度引裂いたか知れません。その中に枯野が野火に燒盡されて、あとは灰燼の物凄さを見るやうな気持になりました。これでは筆執るといふことは罪悪だと思ひはじめました。破壊したる自己を見る感じでした。同志に對する食言をつらく思ひました。かうなっては、落着いて座することすら出来なくて、たゞ部屋の中を歩きまはりました。自己の滅亡を思った時、人の狂ひ行く様をまざまざと見る感じがしました。
 その中に坐ってみようといふ心がきざしました。「坐れ」と岡田先生の命じたまふ御聲を聞くやうでした。端坐暝目一時間餘にして、眠気を催しましたから、そのまゝ床にはいって熟睡しました。翌朝四時に起きてみると、颱風一過の後のやうでした。試みに鉛筆を執ってみると、想は絲を繰るやうに流れて出ます。神の助けかと感じました。五日には「緒言」を書きあげました。六日には「教壇行脚」に道みました。「国語教育易行道」に入っては、存外明るい所もあり、又存外暗い所もあって、驚きもし、苦しみも致しました。百二十字詰の原稿用紙七十二枚がレコードでした。完全に日曜は遊びました。東京に歸つて二三日教壇に立つて、「易行道の行者に」と「結語」を書きました。五月一日東京出發の晩までには、手入が終らなくて、川之江までの車中で、筆を加へました。今高知でこの序文を書いてゐるのですから、この著は私の約一箇月の所産です。
 私はこの著をなすについて、用意の甚だしく缺けてゐたことを告白致します。同時に同志にお詫び中し上げます。私が十年行脚の足跡と、その間に養ひ得た識見を書くのだから、何の用意もいるまいと思つたことが、大なる誤りでした。しかし不用意の妙趣がないでもありません。そはとにかくに、この著は国語教育易行道の序説といふべきもので、細説は他日に讓る外はありません。易行の一道を擧揚することは、一日をゆるうする事が出来ませんから、思ひきつて發行することに致しました。
 私は執筆中、度々遺書を認める感の浮んだことがありました。千数百年来踏襲して来た、外に目のつく教育を、内に切換へようとするのです。古来學徒にすら、自救不了の者が少くありません。私は之を地上一ミリの大衆に施して、その境に安んじ、その生を樂しむ者たらしめようといふのです。初等教育はこの一點を凝視して、まつしぐらに進むべきだと思ひます。私の微力、到底その器でないことは言ふまでもありません。しかし私以後の同志同行の徒が、悉く無力であるとは、誰が断言し得ませう。私は之を念じて、心強い気持で、この遺書を書いたのです。私もなほ数年はものの用に立ちませう。何とかして同志と共に、易行の一道を興隆せしめなかつたら、国家の將来も憂慮に堪へざるものがあると思ひます。
  昭和十年五月七日


於高知大松閣  芦田恵之助

     皆 讀  皆 書
     皆 話  皆 綴
 これがむづかしいやうな国語教育が、我が国にあつてはなりません。教
育をうけないものならば知らず、苟も義務教育をうけたものが、皆讀・皆
書・皆話・皆歸が出来ないとしたら、小學教育者は相等責任を感じてよい
と思ひます。その原因を児童の環境に歸したり、児童の天賦に歸したりし
て、淡き安心を貪るやうなことは、小學教師に決してあつてはならないこ
とです。是は是、非は非、押すべきは押し、改むべきは改め、堂々大道
を濶歩する底の丈夫的覺悟がなくてはなりません。国語教育が興隆しない
で、何の国民教育だと思ひます。    (昭和十年五月八日於高知大松閣)
 

   一 緒  言

 私は、教壇行脚十周年の記念として、この書を書きます。旅に明かし旅に暮したこの十年、見聞し、體驗したことが可なりに澤山ございます。それを忠實に書いてみたいと思ひますが、いかに次第して、いかに表現すればよいかが、私には一大問題です。兒童の綴方を見ても、自分が一人で、或は友だち二三人で、經驗したことを綴る場合には、想それ自體に順序がありますから、比較的締つだものを書きますが、村の祭だの、運動會だのといふ綜合的のものになると、その表現が多く部分的になることは、勢止むを得ない事であります。かうした惱は、兒童ばかりではありません。私の今が全くそれです。幾度目次を作つてみても、順序を工夫してみても、さて筆を執つてみると、部分的のきらひがあり、何處かに縛られた感が致します。そこで私は「思ひ出づるまゝに書いていかう、それが最も自然である」と考へました。したがつて、条理整然とはまゐりません。或は重要な事柄を逸したり、或は柄にもない處で、力んでみたりすることもございませう。それは頭のわるいものに許された自由さだと、お見許しを願ひます。
 手許にある教壇日誌第一巻−昭和五年十月越後新津始、これより以前は全部大學ノートに記しました。これからは全部判取帳に毛筆書、現在は既に四十七巻になつてゐますIを開いて見ると、臺北で土性視學官に聞いて書きつけておいた、船田定治郎氏の直話といふのがあります。私は之をこの書の卷頭に書いてみたいと思ひます。
 船田定治郎氏は山形縣師範學校の出身で、終始一貫、太巴塑公學校の蕃童教育に盡瘁して下さつた方でありま十。太巴塑といふのは臺灣の東海岸、花連港から約二半里の處にあつて、鐵道沿線から大込むこと一里半、極めて交通不便な所です。開校当時から船田さんの御盡力と誠意は蕃人もよく之を理解して、大正八年には既に十二學級の大きな蕃童公學校となりました。今船田さんの直話であるといふを次に書きつけませう。
 花連港より一里許の所に、七脚川といふ大蕃杜がありました。とかく反抗の傾を持つてゐたの、總督府は大討伐を行つて、蕃杜を一掃してしまひました。そのあとに建設されたのが、今の模範移民村として名高い吉野村です。
 ところが討漏らされた七脚川の殘黨は、一部は中央山脈に走り、一部は海岸山脈に逃込みました。かうなると、蕃人のならひとして、事の理非を顧みるいとまなく、内地人を見ることさながら仇敵のごとく、襲聲の餘地あるところには、細大もらさす之を試みて、復讐の快をむさぼつたものでありました。
  我が太巴塑公學校は、海岸山脈に近く、かつ太巴塑蕃杜以外にありましたので、七脚川殘黨に取つては好箇の目標でありました。ことに内地人である私は、彼等にとつては、屠らねばならぬ一人でした。
  ある日太巴塑の老蕃―蕃杜に於ける有志者といふやうな者lが來て、気心こめていひますには、「この頃夜になると、しきりに犬が鳴きます。その鳴聲が極めてよくありません。多分先生を狙ふ者があるのだと思ひます。しばらく宿舎を蕃社内に移して、事のをさまるのを待つて下さい。萬一の事があつては社様がありません」といひました。私はその厚意のある所を十分に察しましたけれども、蕃人を御するにはこゝが大事の所だと考へました。若し今彼が言ふなりになるとしたら、到底彼等を率ゐる事が出來ないと、一死を賭する覺悟で、はつきりと断りました。「君等の厚意は深く謝する。が、我は此處を去らない。我は人巴塑公學校の校長である。日本男子だ。社處に一口の日本刀がある。この一刀に對しても七脚川の殘黛位を恐れてよいものか」といひました。
 しかしさうは言つてみたものの、夜に人つては気のせゐか、寂しさが身にしむやうでした。全く鬼気人にせまるの感がしました。家の周囲に人の気配がするやうにも思ひました。犬もしきりに鳴きます。足音さへも時々きこえるやうです。日本刀を引寄せて、夜を徹して警戒してゐても、何の事もありません。朝になつても少しもかはつた事がありませんでした。かうしたことが一週間あまりつゞいて、私は全く御経衰弱になつてしまふかと思ひました。気味の惡さといつたら、到底口にいはれるやうな事ではありませんでした。
 十日餘りにして、さきの老蕃が來ました。「先生御安心なさい。七脚川は去りました。實は先生にお知らせしないで、蕃社の青年たちが毎夜先生を保護してゐたのです。先生もおきゝになつて、さぞ気味わるく思はれたでせうが、足音のしたのは青年たちが家の周囲を囲めてゐたからです。もし先生にそれをお知らせしたら、先生は必ずお断りになると思つたからです」といひました。
 私は年人しく太巴塑の蕃童を教育して、人に語るべき何事をも持たないものですが、この一事は思ひ出づる毎に、救はない子に救はれたといふ感じで、一面には中譯がないやうにも思ひます。
 船日さんは昭和五年かの培でなくなつて、翌年の三月一日臺北郊外の芝山嚴神社に合祀されました。芝山嚴神社といふのは、臺灣に於ける教育者の培國神社で、毎年三月一日が祭日です。この日は全島がらの參拜者が多數、實に盛大な祭典が擧行されます。私も丁度船日さんの合祀された昭和六年に參拜をとげまして、かくてこそ教育も白ら興隆することたらうとしみじみ感じたことでありました。
 土性視學官はこの程―昭和五年十月三十七日の朝―勃發した霧社事外を語つて、今迄に蕃人が學校を發撃したことは稀有のことで、教職員に危害を加へたことは殆どないといつてもよい位でした。私は此の頃しきりに「教育は進んで、精神は退くものがと考へさせられます」と結語せられました。私の借に「精神は精神で培ふべきものた」といふ書に全く一教するお書葉でありましたので、私はひそがに、何處にもかうした嚴聲を聽くことかと、甚た心淋しく感じました。
 私は最近に極めて面白い事實を見ました。私は小學國語讀本の新しい卷が出るたびに、必ず愛媛縣の川之江に行きます。それは同地の古田擴君に指導をうけて、「小學國語讀本と教壇」を書くためです。この程―昭和十年三月七日より三十三日まで―も卷五を携へて行つてまゐりました。その間の出來事なのです。
 或る朝、私の間借をしてゐる家から、古田書の家へ食事に出がけました。すると街路を小學生が三にこにこしながら掃いてゐました。東朔坊が母にいつたさうです、「おかあさん、私が朝起きなかつたら、しつぱたいてもよいから起して下さい」と。彼等はその作業を公益といつてゐます。それをやり通す一念から、母へかう頼んだのでせう。
 私は面白いことだとは思ひながら、わざと是ともいはず、非ともいはず、唯だまつて見てをりました。二三日の後、ある老婆がその街路に沿つた麦畑を耕してゐました。畑の中の石を掘出しては、悉く街路に投上げてゐました。私は心なき事だとは思ひましたが、それよりも翌朝の公益に彼等が之を如何に處置するかがよい課題であると思ひました。翌朝の公益は果して投上げた畑へそれを全部掃落して、路沿ひのうねには大小の石がごろごろとしてゐました。私は之を見て「おい公益」といふと、數人が私の周圍に集りました。「今朝は石が道に出てゐたらうが」公益はうなづきました。「どうした」 「掃落した」「おばあさんが來てまた投上げるぞ」公益は無言。「それは公益といふものではない。よい事を教へてやる。深い穴を掘つてさ。再び石が出て來られない様に埋めてしまふのだ」 そこで私は穴の大きさ深さ等をよく指圖しました。之を聽いてゐた最年長は、私の言を復唱してゐました。手真似までして聽入つてゐました。この時復唱は確實なる理會への有力なる方法だと氣が付きました。午後には公益連中が汗になつて、それを實行してゐました。
 それから二三日たつて、私は古田君の家の前庭に、公益神社を見出しました。それはかの公益連中が、手工で社殿を作り、鳥居も作つて、御神體には東朔坊の母の作つたお守袋を安置してゐました。公益神社の起原は、街路掃除以前であつたかも知れませんが、私の見付けたのは十七八日頃でした。私には子供等の動きが信仰に觸れて行くのがいよいよ面白くてたまらなくなりました。そこで私は公益神社氏平中として、金を少々封筒に入れて與へました。するとそれを神前にそなへて、大騷だったといふことです。
 二十日であったか、寒い日でした。私の借りてゐる部屋に、大勢の平供がはいって東ました。私は原稿を書いてゐるのですから、見向もしないでゐますと、後の方がひっそりしてしまひました。はて、何をしはじめたかとふりむいて驚きました。氏平十二人が年齢順に端座してゐるではありませんか。私も知らず識らず居ずまひを正しました。すると信徒総代格の誰かが、「有難うございました」とお禮を逑べてお辭儀をすると、皆手をついて並大名式に一禮をしました。さうして「先生のお出でだ時、春秋二度の皇霊祭の日に公益神社のおまっりをします」といひました。相當冗談をいひ得る私も、この生眞面目な一本調平にむかっては、一口も口がきけませんでした。そこで私が東朔坊に、 「公益神社の氏平の名前を書いてくれ」と頼んでおいたら、書いて出しだのがこれです。
  六 年   船 田 昌 春 (十田)
  五 年   石 村  茂  (十三)
  五 年   長 野 廣 次 (十三)
  五 年   高 橋  利 平 (十三)
  田 年   船 田 金 也 (十二)
  三 年   古 田 東 朔 (十一)
  三 年   大  西  弘 (十一)
  三 年   徳 永 悦 郎 (十一)
  二 年   古 田 明 子 (十)
  一。年   古 田 足 日 (九)
         古`田 吟 三 (七)
         古 田 普 行  (六)
                 東 朔 記
 卷季皇露祭の日、卷の大祭を擧行してゐました。太鼓・ハーモニカ、それはそれは賑やかなことでした。暫くして東朔坊が泣いてゐました。その理由を回くと、他町の之を嫉視する仲回が、公益神社をこはしに來るとの眞回があつた爲でした。すると古田君が、「こわしに來たら防がんかい。泣くちうことあるか」といつてゐました。
 事貢はこれだけです。けれどもこの中には單純には考へられない教育の回題をふくんでゐます。教育史にあかるい先生でも、手にあひかねるものがあるやうに思ひます。世相一切がこの事實に織込まれてゐることを思ふ時、私の眼があまりにも眞相を見抜く力の乏しいことを悲しみます。けれども私どもの四周には、常にかうした活教貢事實の生滅してゐることを有難い事に思ひます。
 私はこの十年回に、高等小學讃本卷二エジプトの遺蹟を取扱つたことが三四回あります。私はいつも取扱つた後に、極めて大回題を投掛けられた感がして、時には茫然とする事さへありました。私はこの文單が今の世に、何を暗示してゐるかを思ふ時、私どもの脚下に、おそるべきものの芽生えつつあることを思はずにはゐられませんでした。

    エジプトの遺蹟

 エジプトは五千年の昔に於て、つとに文化の發達著しく、國勢頗る盛なりしが、其の後しばしば外國の侵略をかうむりて、興亡幾變遷、當時の都市は悉く荒廢に歸したり。然れども今尚沙漠の間に存する遺跡を見れば、其の規模の大なる、實に人目を驚かしむるに足るものあり。今其の最も著名なるもの二三を記さん。
 エジプト國現時の首府カイロ市の附近に至れば、處々に雲をしのぎてそびゆる三角塔を見るべし。これ即ち有名なるピラミッ卜なり。何れも巨石を積重ねて造りたるものにして、如何にして之を積上げたるかは、今日向建築學者の疑問とする所なり。其の最も壯大なるものは、高さ約百四十七メートル、底面の一邊長さ各約二百三十メートル、底面積約五萬三千平方メートルの廣きに達せり。或史家の説によれば、此の巨大なる塔を建つるには、毎年洪水の季節三箇月間十萬人の人夫を使役して、二十年餘の長年月を要したるなりといふ。ピラミッ卜は國王及び王族の墳墓にして、内部に室房あり、壯大なる石棺を安置せり。此の石棺中には數千年の星霜を經て尚朽ちざるミイラあり。
 オベリスクは宮殿・寺院等の門前に建てたる石碑なり。細長き四角の柱にして、其の上部は尖端に終り、高きものは三十メートルを超ゆ。皆一本の石にして、多くは花崗岩を用ひ、鏡の如く磨きたる四面にはエジプト特有の文字彫刻せり。総べて國家の大事、英雄の偉績等を傳ふるために建設せるものなるを以て、エジプト太古の歴史を研究するに最も必要なるものなり。
 エジプト文字の研究は早くより試みられたれども、十分に讀解く事能はざりしが、西暦一千七百九十九年三様の文字にて彫刻せる石を發見せしに、其の一はギリシヤ文字なりしを以て、之と對照して始めて讀得るに至れり。
 體と四肢とは獅子をかたどり、頭部は人の形を具へたる異様なる大石像あり。之をスフィンクスと稱す。其の大なるものは、頭部のみにても十メートルに及べり。一對づつ相向ひて列をなすを常とす。けだし宮殿   ・寺院・墳墓等の裝飾物なるべし。大ピラミッドの近傍にあるもの殊に雄大なり。是等のスフィンクス中には、吹寄せられたる砂中に埋没して、今は唯頭部のみ現れたるものあり。
 心をしづめてこの文章を讀んでみて下さい。尋常高等を通じて、四百に近い文章中、この課ほど謎の多くを含んでゐるものがあるでせうか。エジプトの古代文化を慱へてゐるものだとは誰もいふ所でせうが、私はそんなことでは満足出來ません。エジプト人の思惟したことがうかゞといふ方がありませう。なるほど、事を後世に傳へようとするエジプト人の考は、遺蹟の何所にも窺
はれますが、私にはそれだけでは浅薄な事にしか感じません。古代エジプト人の信仰を察する事が出來るといふ方がありませう。いかにも「ミイラ」について考へてみても、さういふ考が浮びます。しかし私は上野の博物館で、ミイラを見た時程、古代エジプト人を馬鹿々々しく思ったことはありません。精神が滅びて形骸のみの存する見苦しさを表はすものに、あの「ミイラ」以上のものがありませうか。私はエジプト古代の文化についても、思想についても、信仰についても全く無智です。無智なるが故に私としての考はたしかなのです。私は高等小亭讀本の編纂者に、この一課を何故に加へられたかをきいてみたいと思ひます。從來の讀本にあったからなどと、お座なりをいはないで、こゝに加へて、高等科の兒童に是非讀ませなければならぬといふ理由がきゝたいと思ひます。

 私は自分の身にかゝる事のやうに思はれてなりません。文化には時に人心をむしばむ程の毒素を有することを物語ってゐるもののやうに思はれてなりません。五千年の昔に、ピラミッドを作り、オベリスクを作り、スフィンクスを作り、ミイラを作ったエジプト人が、五千年の後に、何故世界の最強國民として現存しないでせうか。何故北方非文化的の民族に壓倒されて、その文化がかく地にまみれてしまつたのでせうか。私はピラミツト‐スンィンクス・オベリスクを、たゞその物としてのみ見る事が出來ません。それ等が今に巍然として立つてゐるのは、「これ等偉大なるものを作つた民族の末路を見よ」と、呼びかけてゐるのではありますまいか。「汝等のあこがるる文化には、汝等を絶滅せしむるに足るものがある」と警告してゐるのではありますまいか。私はかういふ意味に、エジントの遺蹟を讀む時、はじめて我が國の教科書として、意義あるやうに感ずるのであります。私どもは、エジント古代の文化・思想・信仰等を、よく知らなくても、事を缺くほどの不都合はありません。しかしエジントの遺蹟からこの警告をきくことは、當今の我が國民にはわけても大切なことであります。そこに我が國の教材としては甚だ意義の深いものとなると思ひます。私はかうした事を「自己を讀む」といひたいのです。エジントの遺蹟にそんな意義があるものかと詰問されても、私はさう讀んで、はじめて意義があるのですから、致し方がありません。
 私は決して言を好むのではありませんが、物質文化と精神文化は、どうも並行しにくいのではないかと思ひます。物質を追ふ者には、とかく精神が軽視され、精神を追ふ者には、とかく物質が軽視され易いやうです。精神文化が衰へたら、いかに物質文化が進んでゐても、國家の存立といふ點から見て、もろいものではあるまいかと思ひます。エジントの文化は物質にすぐれて、精神がこれに件はなかつたのかと思ひます。この前車のくつがへつた跡を行く日本文化は、物質に飽くまで伸びると共に、精神にも飽くまで伸びて、主従軽重をあやまらないやうにしなければならないと思ひます。
 私はこの頃東海道を往來して、濱松以西大垣以東の鐵道沿線に、大工場の新築せられつゝあるのの餘りにも多いのに驚きました。蓋し海外貿易が好調なのでせう。私は常に生産費の安い日本商品は、何としても貿易上底の知れない強みであると思ひます。生産費の安い一大原因は生活費が安いからで
せう。簡易生活に安んじて、労働を樂しむ日本民族には、物心融合、或は物心未分といふべき世界に、まさに優勝者たり得る素質をそなへてゐるのです。それを育てることが、日本文化の精神であり、日本文化を永遠に伸展せしむる所以であります。ところが労力を有するものは労力に偏し、資本を有する者は、自然と資力に傾きます。物の世界に於てすら、その分配の如何によつて、爭の種となつてゐるのであります。何で精神文化に想到する餘裕がありませう。私どもはどうしても物心未分の世界、―假りに之をまことの世界と申しておきます。―即ち「まことの世界」に立ち、一切を考へ直して、そこに安んじなければなりません。エジプトの遺蹟は、日本國民の篤に、永遠に興隆すべき大法輪を轉じてゐてくれるのかと存じます。物質文化の勝利は、その事の裡に、既に滅亡の義を包有してをります。精神文化の勝利は、人間性に充たされないものがあつて、克己禁慾のために、人間自體が滅びて行きます。私は物質と精神の融合未分の世界をみとめ、之に安んじて、我が日本精神を永遠に樹立し、之によつて全世界を指導しなければならないと思ひます。それには日本國民が、一人殘らず、末梢的生活から、まづ「まことの世界」にかへるべき心構を持つことが急務でございます。
 以上船田定治郎氏・公盆神社・エジプトの遺蹟を書いて、國語教育易行道の緒言と致しました。何處かに、この書の説かんとすることを暗示してゐるやうにもあり、また全く纏りのないことのやうにも思ひます。書いてゐる自分さへさう思ふのですから、御覧下さる方々はどれほど物足らなく思召すかとお氣の毒に存じます。たゞこの書が皆さんを外の末梢へ誘ふことなく、皆さんの内に蔵せらるゝ尊き「まことの世界」への旅の餞けともなりましたら、著者として満足するのでございます。


  二 教壇行脚
 教壇行脚、今から思ふと、如何にもをかしな言葉のやうですが、當時はこの外に言現し方がなかったのです。東京高師の國枝教授のお宅に上った時、私の生活を話しましたら、教授は「英國には修身科でさうしたことを試みてゐる者がある」とかおっしやいました。今は早教壇行脚も殆ど十年になります。私はこの生活によって、幾らか育ったやうな感じもしますし、又之によって、我が生にはじめて意義を生じたやうにも思ひます。
 私にもしこの教壇行脚といふ生活がなかったと致しましたら、東京高師の十六年も、朝鮮總督府の三年も、南洋廳の一年も、極めて意義の乏しいものになってしまったかと思ひます。高師にゐた前の十年は、専ら教壇に親しみました。後の五年は、教壇は本腰として、傍國語讀本の編纂のお手傳に、文部省の讀本編輯室に通ひました。朝鮮の三年は専ら普通學校の國語讀本總纂、南洋の一年は、公學校の國語讀本編纂に従事したのでした。
 私は時々私の過去をふりかへって、私程仕合せなものは多くあるまいと思ひます。教育といふ程の教育をうけないものが、多年高師附屬小學校の教壇をふむことさへ望外であるのに、文部省・朝鮮總督府・南洋廳の讀本編纂事務にたづさはるなど、全く希有の事でございます。さうした公的生活を、五十三歳の春に終へて、餘生を教壇行脚に送り、かつて教壇に於て、編輯に於て、苦心經驗した所を親しく全國の兒童に試みて、人の知らない恰悦を味はったといふことは何といふ幸福でせう。之を思ふにつけても、私は國語教育に終生をさゝげて、盡さなければならないと思ひます。
 教壇行脚の十年は、怱忙の中に過ぎてしまひました。しかし大正十四年九月二十一日、濱松師範學校附屬小學校、尋四の教壇に立つて、「彼岸」を取扱つたことを想ひ起すと、極めて遠き昔のやうにも感じます。我が師垣内先生でさへ、この頃になつて、「あの當時、果して教壇行脚といふことが成立つものかどうかを疑つた」と仰せられました。まして一通りの知人は、歯牙にもかけず、唯物笑の種にしたばかりでした。親友の中にも、眞劍に私の身の上をきづかつて「老人の冷水だ、もはやお前の出る幕ではない。よしたまへ」といつてくれた者もありました。私とても十年後の今日を、その第一日にどうして豫測し得ませう。たゞ教壇が戀しきまゝに、もつと端的にいへば、私には教壇以外に行くべき世界がなかつたために、今一つはどうしても生きなければならない事情の身にまつはつてゐた為に、私は私の唯一の世界をひた走りに走りぬけたといふまででした。
 教壇行脚最初の三年は、涙のにぢむ日が少くありませんでした。私の腕はかうも弱いものだつたらうか。教材を見る目、兒童を見る目が、かうも鈍いものだつたらうかと、餘りのくやしさに涙するのでした。その昔高師時代に、多少自惚も交つての自信が、全く粉砕されてしまひました。一體教育といふものは、日頃手がけてゐる子供にのみなし得るもので、一日或は数日の接觸には、意義をなさないものであらうかなど考へはじめました。私は内にかうした惱を持つと、これが何とかならなくては、氣が済まないたちです。今こそ五千餘の同志があつて、養護して下さいますけれども、私が教壇行脚を標榜して踏出した頃は、到る處悉く荊棘林中でした。中には教へて下さる厚意か、それとも中傷の悪童かは知らぬが、あらぬ批難、思はぬ傷蔑を浴びせて、一時の快をむさぼる方もありました。私はこの三年間に、人間の機々相を深刻に見ました。今から思ふと、それが一つの幸福でもあります。
 その被の三年、即ち十年の中の三年には、たしかに一道の光明をみとめました。二日の教育には、一日の意義があることを悟りました。却つて数年相機してゐても、数賞の実のあがらぬ末實をさへ見ました。なほ切込んでいへば、兒賞を破錬してゐる育賞をさへ見ました。私は窃かに思ひました。若し魂と魂とが相搏つて、そこに眼が開けるとしたら、たとひ一日の師でも、それは一生の師であることがあり、幾年師末しても、さらに心に機くところがなかつたとしたら、それは数年か相壊した他人にしか過ぎないのだと思ひました。言葉が往だ育雑のやうでございますが、必ずしも例を械阪のI被にかりる要もございません。私にしても、また壇者の皆さんにしても、小學以末師と仰いだ方といつたら、實ではかる程ございませう。それが多くは今から思ふと、他人でしかなかつたことがおわかりでございませう。一日の師でも、なほかつ機年の師にまさる境合がありませう。教育は開眼の往末であり、鍛錬の往末であります。世には開眼の末がなくて、鍛錬の末が機械的に存する境合があります。それは多く罪悪で、被教育者の破壊に雑るのが常です。
 こゝに氣がつきましてからは、私の教壇傷行には可なり脂がのつて末ました。全く他人の問題ではなくなりました。自らすら安んじない末を以つて、何んで他人を安んぜしむることが出末ようかと考へて末ました。かう考へはじめると、小學兒童を指導するにも、一心不動の境地に立つといふことは、快して容易なことではありませんでした。必ず多少の雑念が往来して、如何にも困難なことだと思ひました。けれどもそれを目ざして道む日は實に樂しいものでありました。さて一心の動・不動は他の何人もはかり知る事の出來ない所です。自分のみがよく知ってゐるのです。故に他人が「結構でした」といって下さっても、自分では穴にでもはいりたいやうな事がありました。批難百出、取るに足らずといひすゑられました時でも、微笑して感謝する日もありました。晴れた日もあり、曇った日もあり、土砂降りの日もあって、三年は過ぎました。その中に極樂の道は一筋である。ただ弛む心をいましめて進むことだと考へました。その頃から、垣内先生に一度御指導が仰ぎたいと思ふやうになりました。
 今は早三年になります。昭和七年の二月二十九日と三月一日、今の東京市澁谷區千駄ケ谷小學校で、垣内先生の御指導を仰ぐ機縁が熟しました。私は尋四の女兒に乃木大将の幼年時代を取扱ひました。先生は仔細に御覧下さって、十分に御指導を給はりました。(その次第は「垣内先生の御指導を仰ぐ記」として同志同行社から發行してゐます)私としてはこの道以外に道はないと信じて、六年餘歩いては來ましたものの、高遠なる學理に照らしたら、さてどうあらうかとは、可なりの不安でございました。幸に先生の御承認を得ればよろしいが、若しその行き方が間遑ってゐるといふことになったらどうしようか。是を捨てては、私は他に行くべき道がないのだがと考へては、何ともいへぬ寂しさをさへ感じました。私はかうした場合、退いて安きを求めるか、進んで砕けるかといふと、最善の用意をして、必ず砕ける覺悟で進みます。この時には、私としては十分の用意を致しました。壇上に於ても、わざとらしくならないやうにっとめました。全国から参加してくれた同志が、非常に気遣ってくれたのも、全く無理ではなかったと、今も感謝してゐます。
 さて御指導を仰いでみて、私の歩みが、甚だしく道をあやまってゐなかったことが明らかになりました。安んじてこの道を進めばよいとの自信もっきました。それよりも之が縁となって、大旅行の後には、必ず先生の膝下に走って、私の多少ともかはったと思ふ教壇を御報告申し上げ、教壇所得の實際問題について、御指導を仰ぐやうになりました。これが私をどれだけ育てたかわかりません。私は先生の膝下に教を請ふやうになりましてから「人は師がなくては育てるものではない」と、堅く信ずるやうになりました。師の御指導を仰いで以來のこの三年「人は幾歳になっても育つものだ」とたしかに信ずるやうになりました。
 最近の三四年、まだく物足らぬ所はありますが、それでも多少安んずる所を得て、教壇に立つことが出來るやうになりました。うまく行く日ばかりはありませんけれども、私の安心には些の亂れを感じない日が多くなりました。生き甲斐のあるといふのは、これかなと思ふ日さへ出來て來ました。有難いことでございます。
 私はこの頃になって、しみぐ思ひます。私が若しこの十年、この教壇行脚の旅に出ないで、釣にでもこるとか、碁會所にでも通って暮したとしたら、實にいひ甲斐なき一生でありましたと。誰も歩いた事のない道を歩いて、今なほ教壇にかく親しむことが出來るのは、人間最大の幸福かと思ひます。私は起てなくなるまで教壇をふんで、多少でも斯道の研究者に研究の資料を殘しておきたいと思ひます。當來の死はもはや十年とは待ちますまい。その押縮められた時間に於て、私は力の限り働いて所信を明らかにしなければならないと思ひます。
 私はこれから教壇行脚十年の所見について、書いてみようと思ひます。私は唯子供がすきで、之に接してゐると、世の事一切を忘れて嬉しくなるのです。さうしてそこに何等かの教育的意義を發見します。かうした私が十年教壇行脚の所見を書かうといふのです。もとより學的論據のある筈がございません。しかし十年のかさね寫眞で、その最も黒い部分であることだけは事實です。私が、何にも縛られない目で見たといふことも事實です。この愚に及ぶ人も少いかと思ひます。
 私の教壇行脚所見の御承認を得たいために、小學國語讀本の卷二「オ月サマ」について、四國と東京と北海道の子供の心の動きが、符歸を合するやうであつたといふ一挿話を試みます。四國の子供といふのは、川之江の古田擴君の長女明子さんです。私と古田君が二の卷「オ月サマ」の所を話しあつてゐる所へ、明子さんがちよこちよことやつて來ました。勿論明子さんはまだ卷二を知らないのです。古田君が緩讀一回、「明子どこが好きか」といふと、言下に「二ハ ノ ススキ ガ オイデオイデヲ シテ ヰマス。」といふ所だといひました。その次はといふと、「クサ ノ 中 デハ コホロギ ガ ナイテ ヰマス。」といふ所だといひました。今も今とて、六十一の老翁と三十八の學者が。 「いかにもうまいね」と歎稱した所でした。これでは少々面目次第もないやうな氣も致しますが、ここが私には嬉しくてたまらない所なのです。こゝで味を占めた私は、東京に歸つて、尋二の孫―名は同じ明子ですが、年は一つ上ですーに、古田君同様、緩讀一回して、「好きな所は」ときいてみました。すると「二ハ ノ ススキ ガ オイデオイデ ヲ シテ ヰマス。」といふ所だと申しました。嬉しくなつて、「その次は」ときくと、「クサ ノ 中 デハ コホロギ ガ ナイテ ヰマス。」といふ所だと、あつさりやつてのけました。之が狂つては、少々こちらのあてが外れるのですが、餘りにもぴつたり行つたので、勢「なぜね」と問返さずにはゐられませんでした。すると「静かだわね」と、「ね」に力を入れて申しました。老翁悉く恐悦至極といつた體でございました。それから北海道に行くことになつてゐましたから、沖垣君の長男尋二の齋坊に、之を試みようと考へました。小樽について、ある日の晝食後、私と唯二人の時、例によつて私が緩讀一回「好きな所は」とききますと、やはり「二ハ ノ ススキ ガ オイデオイデ ヲ シテ ヰマス。」 と、「クサ ノ中 デハ コホロギ ガ ナイテ ヰマス。」といふ所だと申しました。私はいよいよ嬉しくてたまりません。「その次は」と試みにきいてみましたら、「ソラ デハ、オホシサマ ガ 光リハジメマシタ。」だと答へました。違つては話の種にもなりませんが、あまりに符合したので底気味がわるいやうに思ひました。
 さてこの三事實をどう見るかといふが問題です。三兒はほゞ似たやうな育ち方をしてゐます。餘りにほめてもなく、叱つてもありません。學習も學校にまかせて、寫庭でいやな手が入れてありません。成績もまづ似たものでせう。試験者は、古田君と私で變りましたが、方法は古田君のしたまゝをうけついだのです。材料は卷二の「オ月サマ」です。それに對する所要の答が同一であつたといふことは、子供の心に響くところは、略似たものだといふ立言の資料としては、可なり有力なものだらうと思ひます。かの一時流行した寫験心理の研究として、數學級の兒童を講堂に集め、それにある種の問題を與へて筆答せしめ、その答案を分類統計して、いかにも一大眞理を發見し得たやうに喜んだのに較べると、私の研究人眞は百が一にも足りませんけれども、確寫さに於ては、十百倍の數を以てした寫験よりも、まさるとも劣ることはないと思ひます。
 小學數師の寫験といふものはかうしたものだらうと思ひます。生きた目で見たかさね寫眞が、一番活用の利くものでございませう。測定表によらなければ、兒童の性能がわからないなどといふ事は、間にも拍子にもあつたものではありません。私は小學教師の兒童觀察は、分析的によるよりも刀劍の目利、晝画鑑定のやうな修養法によつて、目を修練するがよいと思ひます。
 以上申し述べました所が、もし承認されると致しましたら、芦田といふ同一人ー日々多少とも發逹する者としたら、同一人の存在は認められませんけれどもーが尋常小學國語讀本、又は小學國語讀本といふ同一教材を、全國の兒童に取扱つてみての所産は、よし學的論據はなくても、相當價値を認めてもよいかと存じます。たゞ私の眞心が私心のために暗くなつた場合、私の立言は全く無價値のものとなつてしまふのです。しかしそれは他人の容喙することの出來ない場合でありまして、そこに教壇良心、即ち人間の根本問題が横はつてゐるのかと存じます。私はさうしたことを心の底に思つて、これから教壇行脚の所見を説いてみようと思ひます。
 教室内の兒童の姿勢には、その時間の教育生活ー教授ーと切離すことの出來ないものがあります。教室内の姿勢といへぱ、あの壁にかゝげてある姿勢圖が模範でせう。時には姿勢訓練といふので、手は、足は、目は、頭は、腰はと、人形をいぢるやうに、機械的に動かして、さうして後の御託宣にいはく、「その姿勢で五分間ゐられるものはえらい。一時間ゐれば甲上だね」と。かうやられてはたまりません。試みに先生がその姿勢で、ものの十分もゐて御覧なさい。氣が遠くなつてしまひます。いくら「鐵は熱いうちにきたへなければならぬ」といつても、鐵と同様に心得て取扱はれては、きたへられる當體がまゐつてしまひます。之を外からする教育といつて、稀に必要なことはありましても、それは内からする教育の足らざるを補ふ程度のものです。この姿勢訓練で一つ躓くと、「先生は出來ないことをいふ方だ」と、稚い者の頭にも暗い影をなげます。これが難行道の第一歩、去勢最初の技で、上根の者を除いては、切缺けることの出來ない柵でございます。こんな難所が、先生の軽軽と仰せられる姿勢訓缺、入學幾日自かの所に存するのですから、警戒を要する事だと思ひます。
 兒童の全注意を傾倒して聽入る教授でありましたら、下學年より上學年まで、腰がすつくと立つて、少し前に寄掛る姿勢をしてゐます。半聽入る教授の時は、腰は立つても寄掛るまでには至らず、お義理に聽いてゐる姿勢となると、應はどつかりと落ちて、背は弓なりになつてゐます。かうした觀點よりするを内よりする教育といひますが、之を實現しようといふには垣内先生のおつしやる「教育者的堪能」を要する事かと思ひます。
 私は下學年から上學年まで、姿勢を正すには「腰を立てて」の一命令で貫きました。談みに腰を立ててごらんなさい。足も、手も、頭も、自然の位置をとらなければ、腰一つがきまるものではありません。用のない時は、手を丹田に組ませて御覧なさい。一心不動の自覺が自ら湧いて來ます。談の定めた事か、手を後にまはして、腰掛の横木を掴ませることは。叉談のいひ出した事か、手を握つて机の上におかせる事は。何事も大和民談のとつて來た行住座臥の作缺に叶ふやうにありたいと存じます。若しそれ子供の手は、いたづらをするに缺捷だからといふやうな考が加はつての握拳や、應掛の横木であつたら、その人の心の根本に、兒童の姿勢を談する資格を缺いてゐます。餘談ながら、腰を立てて、心ひろく體ゆたかな感、堂々たる感、悠揚せまらざる感などを内省して、自分の姿勢を自分でうちたてるやうにさせたいと思ひます。學校といふ教育所に、師弟といふ教育の當體の相接する所に、一つの姿勢、一つの應答にでも、全教育の精神のあふれてゐるやうになりましたら、人のためにも國の爲にも私は嬉しくてたまらない事だらうと思ひます。

 教室内の空氣も面白い問題です。私は田舎に育ったせゐか、苗代田を見ることがすきです。苗代田のどの苗一本を見ても、伸びようとしてゐないものはありません。都會の子供は、稗蒔を特に好むやうです。自分に共鳴するところが多いからでせう。私は苗代田や稗蒔のやうな生々した氣分の教室が何蟲にもほしいと思ひます。教室が何のために存するかを、師弟共によく考へなければなりません。兒童からいへば、自分等が共に伸び行く苗代田です。その點からいへば、先生は兄童の伸び行く事情をよくして下さる管理者です。しかし管理者の仕向け方一つで、苗の生長に大なる影響があります。その點からいへば、先生は神様のお仕事をなさる方です。とにかく兒童一人を一本の苗と見て、學級全員五六十人の教室を、五六十本の苗が教ゑてある苗床と見たら、その教室になくてはならないものは、一見生々の氣を感ずる、生々そのものではありますまいか。苗代田におそるゝ事は、苗の勢がわるいことです。教室に忌むことは、児童の萎れてゐることです。苗に勢がなく、児童に元氣が缺けてゐましたら、それは苗代田といふにも、教室といふにも、如何はしいものであります。さらに秋のみのりを思ひ、十教年後の國家を思ふ時、實に寒心に堪へないものだと思ひます。
 私は墓場のやうな教室を見たことがあります。極めて静かではありますが、生氣がありません。冷たくてうるほひがありません。それでゐて訓練がよいといひ、整った教室だといふのですから、私は泣きたくなります。兒童の生氣を奪って、それでうまく躾け得たなどは、あまりにも蟲のいゝ話だと思ひます。教育の冒涜だと悲しみます。生氣はあふれてゐるが、安んずる所に立って静寂なのが教育の眞の姿でせう。
 中等學校には「生徒に白い齒を見せるな」といふ教師訓があります。「笑ふな」といふことです。

人間からこの尊い笑を除いたら、どんなに冷たい淋しいものでせう。笑があればこそ、共に道を進む樂しさが語らはれるのです。そこで育つて來た先生は、多くは笑を忘れてゐます。忘れたのではない、ほんたうには笑へない人です。その笑へない心に被教育者は手にあはないものと考へてゐるのだからたまりません。ところが兒童は決して手にあはないものではありません。如何なる場合にでも、教師が兒童を押へようとか、うまく率ゐようとかいふ考を捨てて、教師自ら落着いてごらんなさい。
兒童はひとりでに落着くものです。他人を管理する祕訣は、自分を管理することです。子休が騷ぐ以前に、自分かまづ騷いでゐるのです。よし何かの變調で、兒童が一時間さわぐやうなことがあつたら、「かうした中では、誰でも仕事は出來ますまい」と澄ましてをれば、兒童はおのづとその非をさとるものです。五、六月の交地方を旅行すると、新しく女師を率業した方などが、尋一尋二にあふられて、泣かんばかりに持餘してゐる方があります。むづかしい教育學の知識よりも、かうした場合に、共に道に立つ心構を教へておかないといふことはありません。師範の教育も多少不親切だと思ふことがあります。
 私の子休といふものは、既に育つてしまひました。今學齢にあるのは三人の孫でございます。私はその孫等のために、よい空氣の教室にはいりますようにと、新學期の來るたびに、祈らないことはありません。空氣のよい所にゐれば、素直に育ちます。空氣がわるいと、とかく性格がこぢれて來ます。私は生氣に充ちた教室がほしいと思ひます。生氣といへば、あの運動場を何と御覽になりますか。始業前、休憩時間、おひるの休、放課後、いつとても、嬉々として生氣の溢れてゐない時はありません。あれが兒童の持前です。おのづからなる姿です。いかなれば教室の姿と、これほどまでにひどく違ふのでせう。勿論仕事は違ひます。自由さも違ひます。けれども兒童は同じ兒童です。私は何とかして、あの運動場の氣分、生氣にみちみちた氣分を、教室に移したいと思ひます。
 生きた兒童の姿は、教壇行觸者に最もよくわかります。兒童は新しいことを好むものです。私のやうなものでも、初めての教壇に立つと、相當好奇心をそゝるものと見えて、兒童の目は輝いて來ます。しかし、その輝きは、私が何者であるかを理觸せんとするもので、探偵の目の輝きに通ふ者があります。數分か十數分、讀んだり、話しあったりしてゐるうちに、心に一二共鳴する所があって不安が拭ひ去られると、目の輝きは眞摯の色にかはります。かうなったらもはや我が物です。その求むる心に乘って行けば、他にそれるものは一人もありません。優といひ、中といひ、劣といひますが、その求めてゐることは、優は優に、中は中に、劣は劣にと、少しもかはりがありません。そこに運動譽と同じ、生々の氣に充ちた空氣がたゞよって來ます。餘談ですが、私が教壇に立つと、何處ででも劣等兒がよく動くといって下さいます。それは私が幼時劣等生であったがために、劣等兒の直覺に、快感を覺えて、「我が友來れり、意を強うするに足る」と歓迎するのかも知れません。しかし天賦は劣等兒ならざるもの、それが教室の譽習に於てのみ、常に出來ない出來ないといはれて、すっかり氣を腐らせてゐる者があります。それが私によって平等に見られるのです。そこに嬉しさを感じるのではないかと思ひます。今日こそ殊勳をたててといふ子供らしい名譽心なども加はって、活動するのではないかと思ひます。生きたる兒盡は求める心が強く、それがいかなる事にも完全を目ざしてゐるのが面白いと思ひます。兒童が身心ともにすくすくと伸びるのは、これが爲だらうと思ひます。兒童は心に觸れる所、響く所があれば、最善の力を盡すものですが、觸れないこと、響かないことを強ひられると、半醒半睡のやうな目をして、ひたすら終の鈴の救をまつやうなあきらめをさへ示します。私が教壇行脚十年によつて、多少發達したかと思ふのは、かうした兒童の動きが可なりに見えだしたことです。
 兒童は相似たものであると思ひます。南、臺湾から北、北海道にかけて、實際に兒童を取扱つてみると、極めて相似たものであると思ひます。但し讀本を讀みかつ書く程度に於て、今の小學先生方に考へられてゐる程の差は、決してあるものではありません。讀本は決して高い程度のものではありません。中位のものでもありません。國求が國民全般に讀みかつ書かせたいといふ最低限度の要求です。私はあの讀本を小學兒童が全部讀み、全部書く位のことは、最低の成績として、六年間にしなければならないことだと思ひます。それが小學教育の力といふもので、そこに目標をおいて努力する事が興隆的の國民を育てる事だと思ひます。私の教壇行脚の所見では、それは少しもむつかしいことではないと思ひます。小學図語讀本をその程度の學年に配し、彼等の求むる心に讀まんとする一念をさへ喚びさませば少しもむづかしい事はありません。ひるがへつて今の讀方教授を見ると大半は無用、甚だしきは却つて讀まんとする心を銷磨することになりはすまいかと思はれることがあります。さて私のかうした所見が、若し今を去る十四・五年前、東京高師附屬小學校在職時代に發表したのだつた
ら、全國の小學先生は必ず「選抜した中流以上の家庭の兒童を集めて、而も家庭教師つきで教へてゐるのではないか。さうした本情のもとにはさうした事もいへよう」と一笑に葬り去られたかと思ひます。ところが今度の立言の材料は、全部お手許から頂戴してありまして、それが殆ど全國にわたつてゐますから、冷笑も以前のやうには私には利きません。却つてさうした所に安心の天地を求めてゐなさるのを私は冷笑したい程です。
 私は今の小學生を、しみじみ氣の毒に思ひます。常に差別の眼でばかり見られて、平等の目では殆ど見られたことがないやうです。差別の眼で見るから優中劣が生じ、劣を中に、中を優にと、難行道も生じるのです。勿論や等の目で御覧になつても、優中劣はあります。けれども優中劣がその天賦の差別をかへりみないで、たゞ一途に育たうと努力するところを尊いものと見るのです。そこを見る時、如何なるものに對しても心の底から愛する心も沸き、敬する心も生ずるのです。それが人を育てる道です。そこに導く時いかなる者も努めて倦まず、學んで飽きざる法悦の大道に到達するのです。
 坦々たる易行の一道がある譯です。 甚だ失禮なことを申すやうですが、今の小學先生は、どなたでも差別の眼で見られて、優秀といはれた方でせう。幾多の選抜試験の勝利者で、今日の榮職を勝ち得られた方ばかりでせう。皆さんのお心を常に支配したものは、優勝者たる競争ではなかつたですか。その所願が成就して、今日の地位でせう。まことにお目出たいことではありますが、皆さんが見られなすつたやうに、兒童を御覧になると、兒童がまた皆さんと同じ苦しみをなめることになります。この差別觀・相對觀の世界に惱む人生の最大苦はテニスやバイオリン位では拭はれません。もつと深い根柢に於て、考へ直さなければなりません。諸先生が現在の御生活を法悦そのものであるとおつしやるならば、私は一言も申すことはありません。けれども若し不安だとか、煩悶があるとか仰せられるならば、兒童をして其所に到らしめないやうに救うていたゞきたいと申します。私が易行を説く意もそこにあり、教育の王道も亦そこにあると思ひます。我が國の小學諸先生、おのれを救ひ、同時に他を救ふこの一道を十分に御研究下さいませ。
 優等兒と劣等兒 教壇行脚者が知るのは、席圖につけてある印による場合が多いのです。優等兒には二重まる、劣等兒には三角がつけてあります。三角は教室の前方、教師にちかい所に、二重丸はその反對の後方に條置してゐます。私はこの印のつけてある席圖を兒ることが極めてきらひです。私はそれを兒る毎に、人にして眞に人を評價し得るものか否かといふやうな反抗の念が浮びます。今日の私には、席圖がなくても、最初に讀めない子條に讀ませて、その躓きから生ずる、沈んだ空氣を教室に作るやうな事は決して致しません。故に席圖の要がありません。印の付してある席圖を信じて兒童に仕事を命ずるのは、他人の目を借りて、自らの仕事をして行くといふことですから、うまく行かう道理もなく、面白くないことに思つてゐます。
 私は兒童がいかにして劣等兒と呼ばるゝに至つたかを思ふ時、まことに氣の毒な感じが致します。新しいかばんをかけて、新しい草履袋を下げて、父か母かに附添はれて、初めて學校に來ました時、何で劣等兒といふ者がありませう。(中略)若し親が何の文句も、何の條件もつけないで、先生に手渡したとしたら、それは少くとも、親の目にだけは、十人並に兒えてゐる子です。普通兒と見て差支のない子です。それが一學期の通知表をいたゞく時になると、多少の等差がついて來ます。二學期にはその差が更に著しくなり、三學期には仲間でも明らかに劣等兒として認め、自分でも漸く之を信ずる樣になります。さうして學校中でも誰知らぬもののない劣等兒となつてしまふのです。不思議なことには、現級に留めおく數の多い擔任は、標準の高い名訓導として、校長に認められる場合があり、全員進級さす擔任は、父兒にこびる者として校長のおぼえも自然芳ばしくないといふやうな場合もあります。私はかうした事實を傍観して常に思ふのは先生のなさる事は総べて完全無缺として、他を評價なさるのだから、それでも濟むやうなものの、教密に詮讀した來たら、多くの劣等兒を生じた原因が那邊に存するものか、頗る疑はしいものであります。
 劣等宣言の原採となる學期々々の試験とても、よく考へるといかゞはしいものです。問聽は採點の便宜から、多くは文字の書取、教へた文章を讀ましてみる位のことです。全く記憶過重の試験で、理會などの關聽には、あまり滿れないのが普通のやうです。かうした造作ない試験ですが、その結果は児童在學中の浮沈に係はる程の問聽を生むのです。兒童の父母もその眞相を知らず、社會もかうした事には無關心ですから、かゝる教育的横暴が事なく濟んでゐますが、いつまでもこんな飮態をだまって見てゐるものではありますまい。劣等兒にも父があります。母があります。教が子の事とて、人に語るも面はゆく、人知れぬ寢物語に、涙する夜が幾寂あるか知れません。生先永き稚き者の爲に、よくよく考へてやっていたゞきたいと思ひます。
 私は無暗に先生の方に矢先を向けるやうで、申譯がありませんが、私は實際世に劣等兒といふものは多くはないと信じてゐます。それには入學當初の兒童の語る言葉を注意してお聽きなさい。滿六寂といへば、生れて足かけ七年か八年、はじめの二三年は空々寂々、飮んで寢る肉塊のやうなものです。それが四五年の發育によって、ともかくも人の言を解し、思ふことを語るまでになって入學するのです。それが劣等といはれませうか。私は口語によって人並の應對の出來る兒童の、劣等兒となった場合、教師は自分の爲したる一切の事について、採く反省してみなければならないと思ひます。育つべく仕向けた事が、反對の結果を呈したといふには、猛省してみなければならないことがあります。
 若し讀本の讀めない者、書けない者といふ事を標準として、劣等兒を數へてみたら、恐らく上は文部大臣から、下は兒童を學校に送つてをる親迄、あつといつて魂消る程の數に上るでせう。實に讀めない子供書けない子供は全國に夥しい事です。大都市の中にでも、驚く程あります。都市の子供は小利口で、六七分の讀み、六七分書けるのをもつて、これでよいもの、どうにか暮れて行くものとしてゐる風があります。手の抜けるたけ手を抜いてといつた讀みや書寫が多くて、底力のある讀みや書寫は、實に寥々たるものです。こゝに文化病の黴菌が潜むかと、私は氣味わるく思ふ程です。
 山村・長村・漁村・都市・都邑、何處に行つても讀本の書けない子、讀めない子が澤山あります。その理由としての説明を一つの耳で聽くと、私以外の人をして聽かせてはならないと、しみぐ思ひます。山村の先生いはく、「山村にして交通不便、何事も意にまかせず」と。長村の先生はいはく。
 「農事多忙、復習・豫習の寸暇を有せず、かつ家に文字ある者乏しく、教育の事に深き關心を有する者なし。」と。漁村の先生はいはく、「その日かせぎの刹那主義、教育のことなどてんで相手にしない」と。都邑の先生はいはく、「都會の文化が流れ込んで、この町にも力ッフェーが十二戸、玉屋が三軒出來た。ラヂオ・蓄音機、朝からやかましい事だ。人は落着を失つて、教育は非常な影響を蒙むるやうになつた」と。いづれも讀めない、書けないといふ理由です。私はこれに答へて、「一つの耳で聽きますと、日本には讀める所、書ける所が何處にもないといふのが、當然であるやうに感じられて來ます」といつて、山村・農村・漁村・都市・都邑のそれぞれの理由を、一々紹介して、「私がうかゞふ分にはよろしいが、他の社會人にはゆめにも知らせてはならないことです。」と、戒めもしたり、笑ひもしたりして來るのが常です。教育者の一面觀が、どれほど教育者の地位を輕めてゐるか知れません。中には「小譽校の先生は、自分がわるいといふことを、更にいはないものですね。目のつけ所が頗るわるい。それが識見の進まない譯です。あなたも小譽校の先生たつたさうですね」と、露骨に一本とる方があります。
 私はある處で、私の人相的見解からは、この筋の八人たつたら、讀めないものはまづ一人もあるまいと見て、後から順繰に前へ讀ませて來ると、聽くなかれ、讀めたものが五人、私が手傳つてやうやう讀めたものが三人。その讀めたといふ者も、八分や九分で、自信ある底力を感ずる讀みは一人もありませんでした。それでゐて、議論をしたり、發表をしたりしてばかりゐるのたからたまりません。私はこの時ほど、この子等がかうして育つたことに氣の毒な感を持つたことはありません。かうした生活を六年間繼續、讀めもしない本を諦視し、―讀めないから、讀ませられる心配はないとしても―人の讀むのを聽いたふりに、本を持つたり置いたりして面白くもない月日を送つて來た事を思ふと、まるで罐詰のやうな生活です。氣の毒でたまりません。これで思想が悪化しなかつたら、それは奇蹟です。思想悪化の可なり太い根が、こんな所にあらうとは、誰も氣付かない所でせう。國の將來を思ふ者は、深く深く考へなければならない事です。
 劣等兒の出來てゐる教室は實に空氣がよくありません。よくないから、劣等兒が出來たともいはれませう。師弟全部が、共に育つのを樂しむといふやうな和やかさは、更に感じられません。一から十まで、兒童の名譽心・競争心に鞭うつて、勝つたとか、敗けたとか、當つたとか、外れたとか、成功したとか、失敗したとか、まるで一六將負の樣な生活です。かうした處に生ひたつた優等兒は、相對觀のつよい者で、小ずるい者か、利口な意氣地なしかで、好ましくない者が多いのです。教室内の空氣が裂けてゐるか、雷同してゐるか、私にはすぐそれが感じられますが、とにかくいやなものです。劣等兒は大抵自樂心の持主です。これあるがために、劣等兒は浮び上ることが出來ないのです。優等兒は多く自負心の持主です。これあるがために、優等兒は他と一つになりにくいのです。劣等兒の發生する教室の優等兒は、今日の中等學校の入學受験位には間にはあつても、人としての尊さから見て、どうあらうか。師弟一如、優中劣各その處に安んじて、共に育つを樂しむといふ境地には、甚だ縁遠きもののやうに思はれます。
 小學校の優等兒、必ず社會に於ける優等兒ではありません。小學校の劣等覺、必ずしも社會に於ける劣等兒ではありません。却つて育つた後には、優等兒が輕薄子の色を示し、劣等兒が質實の傾を示してをる者もあります。そこが教育上の重要問題で、自然の教育の恩澤とでも申しませう。優等兒にも春が來るやうに、劣等兒にも春が來ます。人の情を知る時が來ます。小學校では劣等兒は沙漠といふよりも、むしろ茨の枯野を旅行する者でありました。たゞ寂しいばかりでなく、事毎に刺を感じて來たのでした。面白くもない世の中でした。一度も得意の味を知らないで來たのでした。それが自然の力に恵まれて、舞踊の興味を感じ、朗吟の趣味をさとり、スターの寫眞を集めて、戀愛を解するやうになると、茨の枯野が急に春の野にかはります。この時劣等兒が、はじめて生き甲斐のある生活を覺つて、動きはじめます。その勢は實に猛然たるものです。全く盲目的です。何物もよく之を阻止するものはありません。この時あまりに之を拘束すると、それは三原山最期の旅を促進するに止まる場合があります。又それをなすがままの放漫にまかせても、人としてつひに世に立てなくなつてしまふことがあります。この場合には、十分に勞苦の味を知つて、世の一切を承認するやうな師が之を抱擁しましたら、劣等兒といへども、必ずしも人にならないとは限りません。けれどもそれは頗る幸運な劣等兒の幾人かで、全部が救はれるといふ譯にはまゐりません。劣等兒は自棄心の持主たけに、世に對して反感を持つてゐます。故にその土に平凡に終る者は、むしろ幸福なる劣等兒で、時にはおのが反感の犠牲になつて、大罪を犯すものさへあります。
 劣等兒が正しき生活をしようといふには、人一倍の苦勞があります。小學に於いて人に後れたたけでも、取返さなければなりません。まして年頃になつて、正則に進んで來た人に伍して、人並に歩かうといふには、稚なかりし日の身の不幸を、しみぐかこつ日があります。
 私は小學校に於ける優秀なる劣等兒で、青年期・壮年期は、本能の衡動になやみ、経済的の災厄になやみ、なやみなやみて、今六十三の老年期に逹したのです。ふりかへつてみると、私の過去一切を承認したいやうな氣がします。なやみの到來する毎に、私は育てられて來たと思ひます。私の歩いた道は、爲の脊越か、二河白道のやうな所でした。善いことばかりもしなかつたのですが、こゝまで來て、劣等兒のなやみの例に、おのれをかうして書くだけでも、まづ幸福の部分かと思ひます。私のうけた教育は、難行道中の難行道であつたかと思ひます。自分が下根である爲に、さう思つたのかも知れません。しかし私の今考へてゐる易行道のやうな所を歩ませてくれたら、私のやうに苦勞をしないで、早く明朗な天地に出られたのではなからうかと思ひます。かうしたことも、私が易行道を求める遠因になつたのだらうと思ひます。


 以下、後日に。


四 読方


五 綴方
六 易行道の行者に
七 結語