教式への入門にはいくつもの入口があります。


 芦田教式の入門講座を行います。
 主に小学校の先生を想定して書いていますが、それ以外の先生も読んでいただくと国語の指導をやりやすくなり、子どもは学習が分かり易くなる授業を構築できると思います。

 芦田先生のご授業は茫洋として難しかったそうで、それを鈴木佑治先生が国語科指導の単純形態としてより分かり易く説明されました。
 ところが芦田先生にも鈴木先生にも一度もお会いしたことがない私どもは、この国語科指導の単純形態もなかなか難しい本になっています。そこで、国語科指導の単純形態を更に簡略にして説明していきたいと思います。
 また、この「入門講座」は、この悲願に向かって、私が歩んできた道を表すことでもあります。おつきあいください。

悲願 : 皆読・皆書・皆話・皆綴

 どの子も読め、どの子も書け、どの子も話せ、どの子も綴れる、こういう国語教育を学校で行っていかなければならない、これが芦田先生の悲願です。
 「どの子」の中には、力の弱い子どもも含まれています。力の弱い子も机から乗り出すようにして授業を受ける、そういう授業を目指しています。力のある子も勿論そうです。

考えるが中心

  
 この皆読・皆書・皆話・皆綴の中心にあるのが、考えるということです。考える子どもを育てたい。これも教式の悲願です。

力の弱い子にもできる喜びを味わえる学習を。

 どの子も伸びたいと思っています。その気持ちが人一倍強いのが力の弱い子です。できるようになりたいと思っているのに、なかなかできない。それが力の弱い子です。
 力の弱い子でもできる学習、できたという充実感を味わえる学習を考えなければなりません。それも国語の時間は毎日ありますので、毎日感じさせなければなりません。

力の弱い子には耳から。

 力の弱い子どもに、読め、書け、話せ、綴れと言ってもすぐにできるものではありません。まず聞くことから始めます。そして自分の内面に目を向けさせ、学習意欲を高めます。これが学習の基本です。
 友だちや先生が読む本を聞いて、読めるようになります。書くことを聞いて書けるようになります。話すことを聞いて話せるようになります。聞いて綴れるようになります。・・・ということです。


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