学級崩壊した学年を担任する

 ずいぶん前のことですが、これは本当にあった話です。当時、私(山先と子ども達から呼ばれていました)は30代前半の教員でした。

 それ程裕福な家庭の少ない校区で、親が子どもに手をかけていない分、子ども達は純朴で、子どもらしい子どもといえばその通りの子どもが多い学校でした。
 その学校へ勤務して5年目、私は6年を担任していました。

 夏休み前の6月頃のことです。4年生のある学級がうまくいかないという話でした。4年生は全部で4クラスありました。担任の先生は、転勤してきたばかりの経験年数のある女の先生でした。ところがこの先生、低学年ばかり担任していたそうで、学級の指導が低学年向きであったようです。子ども達のできない細かな点を指摘し、子ども達に改善を迫る指導を中心に行っていたようです。その先生のクラスが2ヶ月でうまくいかないという状態になったわけです。

 夏休み明けの9月の初めの職員会議で、その先生が夏休み中にお辞めになったこと、新しい講師の先生が着任したことの紹介が校長先生からありました。この先生はこのような事例をたくさん扱ってきた40代前半の女の先生でした。

 9月中は運動会の練習のため、通常の教科の授業がなかなかうまくできない時期です。その間に、何をどうしたのか分かりませんが、その講師の女の先生は、クラスがうまく機能しなくなった学級を立て直されたのでした。

 ところが、運動会前後の10月のはじめに、同じ4年生の学級の2クラスが、うまくいかないという話がありました。その内の1クラスは4年の学年主任の女の先生のクラスでした。40代後半であぶらののりきった先生のはずですが、うまくいかない状態になったのです。
 そして運動会後の10月中旬には、その2クラスのために、教職員全体で何ができるだろうか、という職員会議が行われるようになったのです。はじめは1〜2週間に1度ぐらいでしたが、毎週になり、毎日連続で開かれた時もありました。子どもの実態の報告、他教員からのそのクラスの児童の様子の報告、対策の検討と、確認ということが行われました。
 2クラスの内の1クラスのA君という男の子は、校長先生のいうことをきかず、校長先生にドッジボールをわざと蹴って当てたという話、またB君という男の子は注意した校長先生の左手にかみつき4針縫うけがをさせたという話、掃除の時間に特別教室の掃除を割り当てられた子どもは、その教室担当の先生をほうきを持って追いかけ回したという話を覚えています。毅然とした態度で指導することが大事だというような話があったと思います。

 ある時のことです。12月頃のことでした。私は、何かの用事で清掃時間に職員室へ行ったのです。そうすると、4年の学年主任の先生が職員室でケーキをつまんでコーヒーを飲んでおられました。掃除の時間に子ども達には掃除をしなさいよと言っておきながら自分はお菓子にお茶と、一瞬、何だとは思いましたが、年上の、学年主任の先生でしたから、そのまま放っておきました。その時、ふと運動場を見ると(職員室からよく見えるのです)、その先生のクラスの子ども達だけが数人(というか、10人弱)、運動場で遊んでいます。私は思わず、校内放送のマイクを取って、「運動場で遊んでいる人、掃除に行きなさい」と言ったのです。そう言ったとたん、学年主任の先生が立ち上がって私に言ったのです。「放送で注意するのは止めてください」と。私は「なら、ご自分で注意されたら」と言いかけたのですが、年配の先生ですから口をつぐみました。それで自分の教室に戻って掃除の続きをしました。
 このことがありましてから、きちんとした指導を行っているのだろうかと思うようになりました。たしかに、4年の先生は、新しい講師の先生以外はよく職員室でお茶を飲んでいます。昼休みや放課後のちょっとした時間にです。学級がうまくいかないから、授業がうまくいかないから、休憩をたくさん取られているのだろうとは思いたいのですが、先生方の表情を見ると、そうだろうかという疑問がわいてくるのです。

 1月のことです。そろそろ次年度の計画を立て始めた校長先生に、校長室に呼ばれました。来年、5年を担任してくれないかということです。私は断りました。あの学年は、先生がわがままをせずに、ちゃんと普通の指導をしたら何も起こらない学年だ、何も私でなければらい理由はないと思う、誰でも担任できる学年ではないか、他の人に当たって欲しいと。校長先生はまじめな方で、私の話をしっかり聞いてくれましたし、私にもいろいろな話をして、説得されましたが、私の方としては、それ程難しい学年のような感じはしませんでした。
 その話を都合4回しました。1回に2時間ぐらい話しましたので、8時間、校長先生と話したことになります。私はすっと断り続けました。

 で、4月1日に担任発表があったのですが、5年の担任に私は入っていました。まぁ、校内の人事権は校長先生にありますからね。

 4月8日が始業式です。始業式のお終いに児童への担任発表があり、その後、クラス分けを行って、子ども達を教室に連れて行きました。さあ、4クラスの内、3クラス学級崩壊になった学年です。この学年を担任するのです。4年の時に難しかった子ども達をばらばらにして新しい学級になるように名簿をつくってくれているはずでした。
 いつものように教室では名簿順に子ども達を座らせました。そして、いつもの所信表明をやったわけです。その時、5人の子どもが目に入ってきました。男の子が4人に、女の子が1人です。私の話を聞いていない、斜めに聞いているのです。あぁ、この子達だなと思いました。どうしようかな、と考えながらも何をするだろうかと放っておきました。しばらくすると、教室内で立ち歩き始めましたが、それでも放っておきました。教室から突然出ていく子もいました。しばらくすると帰ってきましたのでトイレにでも行っていたのだろうと考えました。その子達は難しい子どもだと分かったのですが、それ以外に教室内に、おかしいな、何か変だぞと感じるものがありました。ところがそれが何だか分かりませんでした。教科書やノート、ドリル等を配布し、明日はみんなの話(抱負)を聞きたいから考えておいでと告げて子ども達を帰らせました。

 次の日、1時間目と2時間目を使って子ども達の抱負を聞いたり、クラスの係を決めたりしましたが、相変わらず何か変な感じがするのです。例の5人の子ども達は相変わらずです。友達の言うことなんか聞いていません。斜めに聞いて、ちゃちゃを入れたりしています。それよりも、学級の、この変な感じは何だろうとずっと思っていましたが、3時間目、国語の授業を始めると、分かりました。大勢の子ども達の眼が変なのです。多くの子ども達の眼は私の方を向いていましたが、その眼が<魚屋の死んだ魚の目>をしていたのです。みんなそろって私の方を向いてはいましたが、眼に表情がないのです。輝きがないのです。それで子ども達の眼が、店先にずらっと並んで、眼をしっかり開けてはいるが、うつろな目をしている魚屋の死んだ魚を連想するのです。思わず、ハッとしました。悲しいことです。
 授業をすると、5人の子どもは聞いていなかったり斜めに聞いていたりしています。立ち歩いたりもします。もちろん、授業に積極的に参加してくる「できる子」もいます。ところがその真ん中、いわゆる「普通の子」の眼がおかしいのです。「できる子」でもない、「手のかかる子」でもない、「できない子」でもない、手のかからない子、どこにいるのか分からない子、できる子とできない子の真ん中にいる「普通の子」「その他大勢の子」の眼が死んだ魚の眼をしているのです。授業をしていると、その眼が私に訴えかけてくるのです。
「先生、あの子(5人の子)達を叱らないで。私たちはちゃんと先生の言うことを聞くから、先生、あの子達を叱らないで。先生の怒った顔を見たくないの。」
と訴えかけて来るように感じたのです。ビックリしました。授業中、思わずその場にへたり込みそうに感じました。「よし、この子達を何とかしよう。」「この、その他大勢の子を何とかしよう」と思ったのです。
 その日子ども達を帰してから、一心に考えました。5人の子ども達より前に、その他大勢の子どもの目を輝く目にしよう。それにはどうすればいいだろうか、と。
 そこで考えたのが、学校は子ども達にとって勉強する場所である、その勉強を、あの「その他大勢の子」達に分からせよう。そして、勉強って面白いと思わせよう、学校を楽しいところにしよう、学校を好きにさせよう。そして死んだ眼を輝く目に戻そう。それにはわかりやすい授業が大事だ、あの子達にわかりやすい授業が。それには、勉強の内容を単純化しよう。一握りできるぐらい単純化すれば、あの子達にも分かるだろう。分かれば、分かった喜びもあるが、分かる自信が起きてくる。それが輝く目のもとになるだろう。鈴木先生は仰っているではないか。単純化即具体化と。子ども達にとって具体的なものでないと分からない。抽象的なことは難しいのだ。だから具体的でないといけない。具体的ということは、単純化から生まれるものだ。取り扱う内容も、取り扱い方も単純化しよう、あの子達にわかりやすいように。毎日の勉強が分かれば、学校は楽しいところになる。そうすれば更に意欲がわいてくるだろう。その意欲が高まれば、困難な課題へも立ち向かってくれるだろう。それが学習意欲ではないか、と。

 次の日から、例の5人の子どもよりも、その他大勢の子どもの顔・眼を見ながら授業をしました。その他大勢の子どもの意識の流れを考えながら授業をしたのです。反面、5人の子どもは見ていませんでした。勝手にトイレに行ったのに気づかない時もあったぐらいです。
 積極的に授業に参加してくる子ども、いわゆる「できる子ども」は、放っておいても授業に参加してきます。参加してこなかったり、斜めに聞いたりする子どもは「手のかかる子ども」です。その中間が「その他大勢の子ども」ということになります。この子達は、授業が面白そうであれば参加してきますが、ちょっとでも面白くなさそうであれば、よそ見をしたり手遊びをしたりして授業に参加してきません。この年度は、この「その他大勢の子ども」に焦点をあてて授業したのです。「働きアリの理論」というのがあるそうで、10匹のアリの内2匹は集団を引っ張っていくアリ、2匹はよほどひどいことがない限り遊んでばかりいるアリ、そして6匹のアリはどっちつかずのアリという立場を取るそうです。子ども達をアリに例えるのはどうかとは思いますが、この年度は、この6匹のアリをどうするかで取り組んだ年度でした。ヒトはアリじゃないんですから、うまくいくかも知れない。そして、それがうまくいったのです。6匹のアリが2匹のアリを変えたのです。

 国語は教式に従って授業を行いました。七変化の教式です。いつも、まず読み、今日の目当てを話し合い、視写を行い、板書を読んで、板書について話し合います。そして最後に板書を斉読する。これを繰り返しました。しばらくすると、この手順を子ども達は覚え、ああ次は視写だな、とノートや鉛筆の準備をしていました。
 この頃、七変化の教式しかしていなかったのですが、どうも足りない感じがしていました。それでやっと教式による作文の授業を参観できたので、作文の教式を始めたのはこの頃でした。今だと是非一緒に作文の教式も行うことをお勧めします。荒れた学級を立て直すには、荒れない学級にするには作文の教式はとても強力な身方になってくれます。なぜなら作文は自分の精一杯を書かせるからです。そして決してケチをつけないからです。しかも指導が具体的です。
 算数は、教式を取り入れ、なるべく毎時間、問題文を視写させました。
 社会も、なるべく教科書の文を視写させました。
 理科は、問題解決的な授業を行いました。学年主任の先生が理科の専門でしたのでだいぶ勉強させていただきました。
 体育は、できるだけ体を動かす活動を多く取り入れて行いました。考えたり、振り返ったり、話し合ったりする授業ではなく、ただ動け動けの体育の授業です。乱暴なことをやったものです。
 家庭科、図工、音楽はどうやったか覚えていません。

 2週間ぐらい経ったある日のこと、中間休みに私は教室でノートの丸付けをしていました。そこへ女の子が一人、つかつかつかと私の前に来て「先生、○○は○○ですか。」と言ってあることを聞いてきたのです。例の私の話なんか聞いていなかったり、斜めに聞いていたりしていた5人の子の内の一人です。ここには書けないような大変なことを聞いてきました。ああ、私の足をすくいに来たのだな、と思いました。今すぐ返答をしなければ、返答をしないことでまた、足をすくいに来るだろう。「なんてことをきくのです。そんなことを聞くものじゃありません」と叱るような返答は、女の子が想定する返答の内の一つです。女の子の思うつぼです。そんなことをすれば、その返答を元に、徒党を組んでまた足をすくいに来るだろう、と思いました。一瞬で返答を決めなければなりません。その返答が妥当か否かの検討もできません。他にいくら考えても良い返答を思いつきませんでした。考えていた時間は 0.3 秒以下だったと思います。そして決めました。私は両肘をつき、手の上にあごを乗せて、その子の目をしっかりと見て、怖い顔にならないように注意して、ゆっくりと返事をしました。「あなた、○○したいの?」と。とっさに考えた返答は、その子にとって正解だったようです。以後、私の足をすくいに来ることはありませんでした。聞いてきたことも、私がしたたった11文字の返答も、忘れられないことですが、ここには書けません。でも、うまくしのぐことができました。
 後で聞いたのですが、この女の子は、6月に崩壊した学級を、崩壊させた首謀者だったとのことです(その通りに言われました)。あぁそうですか、としか言えませんでした。
 この女の子は、家庭訪問をしてビックリしました。行くと、二十歳になるお姉さんがおり、親権を取って育てていると言うのです。お父さんもお母さんもいないのでした(死別はしていません)。個人懇談会は毎回お姉さんが来られました。このお姉さんとの会話から、あんな質問が出てきたのだろうなと思いました。

 授業の前に「今から説教があります。よ〜〜く 聞きなさい」と銘打って、よくいろんな話をしました。「みんな、こういうことがあるが、どう思う?」とやるのです。よく使ったのは「以前ね、担任した子どもにね、こういうことがあったの。みんなはどう思う?」ということです。実はそんなことは無かったのです。今、目の前の子どもの中にそれがあるのです。それが見えるのです。そういう時の話です。だから「説教がある」と言うわけです。もちろん、そんなことの説明はしません。が、話の切り出しは「以前ね、」から始まるのです(昔々あるところに、と同じです)。子ども達もそう言われるから少し安心して考えます。悪いことをした子どもも自分のこととは違うと考えますから、素直になれます。
 「説教がある」とは言いますが、今風に言うとソーシャルスキル・トレーニングに近いものですね。場面を設定し、登場人物の考えや気持ちを考えさせるのです。そして私が言う台詞は決まっています。「そうか。そう思うのね。」や「なるほどね。」という言葉です。「それはどうかな。」とか「それはいいね。」とは決して言いません。そう言いたい時は「皆はどう思う。」と問います。皆は「ダメ、ダメ。」とか「良い。良い。」と言うのですが、皆がそう言っても、私はまた「ふ〜ん、そうか。なるほどね。」とやるわけです。
 「皆がそういうのなら、そういうことにしましょう。」と言うことも決して言いません。それは子どもの言うことを何でも聞く先生といことになりやすいからです。「先生、前に、なるほどな、と言ったじゃないか。」という子どもがいたら、「なるほどと思ったから、なるほどと言ったまでで、そうするとは言っていないよ。」「みんなのことはみんなが納得してするように、みんなで決めないと。」と切り抜けられる余地を残しておきます。
 もちろん、皆が私の思う方向に考えてくれる時にこれはやります。反対方向に向かうかも知れないと思う時は、別の「説教」をします。指導なんですから。

 叱らない
 叱るのは、事が起こってからすることで、事が起こる前に指導しておかないと。叱るのは指導が行き届いていないから叱らなければならないこと。
 これは、教式の勉強をしている時に、島根の川崎先生から教えていただいたことです。
 では、子どもを叱らないためには、どうすればいいか。それは、子どもをよく見るということです。子どもが見えれば、注意しなければならないことが見えてきます。そして失敗を犯す前に指導するわけです。
 事故もあります。突発事故です。偶然起こった事故です。そんな時は「残念ね」と言います。これも叱りません。もちろん反省材料にはなりますが、叱る内容ではありません。

 叱るとき
 ところが、注意したり叱ったりしなければならないときもあります。教式の勉強の中で教えられたこと <高学年の子どもへ注意する時は、決してみんなの前で注意したり叱ったりしないこと> を守りました。みんなの前で注意すると、その子は <先生に恥をかかされた> と思うだけで、指導の効果は上がらないと教えられました。注意したり叱ったりしなければならない時は、その子どもを注意するのではなく、みんなを叱るようにすること。どうしてもその子へ注意しなければならない時は、みんながいない時、いない所で「お話があるから」ということで話をすること、ということです。100回叱るより1回話をする方が効果があるということです。それを守りました。
 5人の内、最初に放課後に注意をした子どもへも「話がある」ということで、残ってもらいました。残ることをずいぶん嫌がっていましたが、残ってもらったのは5人の内、力関係で真ん中の子どもです。他の子は、何だ、自分も聞きたいというようなことを言っていましたが、(時間がかかりましたが)教室から出させ、帰るように言いました。帰るわけがありません。廊下の角で、ずっと待っていたのです。残した子どもには、注意すると言うより「話がある」という態度を守りました。「こういうことがあるんだが、あなたはどう思う?」という姿勢を貫いたのです。そして子どもの話を聞く姿勢を見せながら、注意することの方へ意識を向けさせました。子どもがこちらの思うようになると「そうか、あなたはそう思うのね。あなたはすごいね。」と言ってほめました。そして帰すのですが、帰る前に、「このことはみんなには内緒だよ、先生も言わないからね」と約束させ、私もそう約束します。廊下に出てしばらく行くと、例の子ども達が待っていました。その子達はきっと何の話だったか聞いたことでしょう。残した子どもが私との話を伝えたかどうかは知りません。まぁ、きっと言ったことだろうとは思っていますが。
 それを他の子どもも混ぜながら、順にするのです。「話がある」と言って。「この話は秘密だよ」と言いながら、にこやかな顔にして帰しますので、みな自分の番が回ってくることに興味津々です。
 そういうこともやりました。

 絵本
 これは国語の勉強を始めた頃に、ある先生から教えてもらったことで、ずいぶん長い間実行していました。それは保育社の「こどものとも」を定期購読し、それを教室の後ろに置いておくというものです。年間で12冊ですが、何年も続けているといろんな本が集まります。好きに読んでいいよ、でも持って帰らないでね、と言っておくのです。「とんことり」や青虫ぴくとぷくの話は面白い話だなぁと思ったものでした。「こどものとも」は年長児向けの童話ですが、年中向けの「こどものとも」も購入していました。
 この絵本は、6年生の子どもも読んでいました。この学年でも教室の後ろに置いていました。時々読んでいる子どもがいました。

 おり紙
 私はおり紙が好きで教室に何百枚も置いて、「誰かする?」と声をかけていました。同じ形のものを何枚も折り、それを組み合わせて形を作る、いわゆるユニットおり紙というものです。その本を何冊も買い、いろいろ折っていました。それを子ども達にさせようとしたのですが、どのクラスでも食いついてくるのは数人です。でも雨の日などには他にすることもありませんので、大勢が折ってくれました。一度、立方体を300以上も作り、恐竜の形を作って教室の後ろに置いたことがあります。なかなかの作品でした。

 紙飛行機
 「子供の科学」の後ろに付いていた紙飛行機です。おり紙飛行機ではなく、紙をさみで切り、セメダインで何枚も貼り合わせて作る紙飛行機です。気が向いたら画用紙に印刷して、「今度の土曜日に飛ばそうか」と声をかけて運動場で飛ばしていました。年に1〜2回のイベントです。

 小黒板
 教室の後ろの壁には小黒板がありました。そこへ、放課後に私が気に入った詩を書いておくのです。大人の詩から児童詩までいろいろです。まぁ、板書の練習です。
 次の日の朝などに、誰かの子どもがいたずらか何かで、一部でも消えていたりしたら、すぐに全部消してしまいます。子ども達に「誰がした」などとは決して言いません。子どもを叱るためにかいたのではないのですから。そして、時間があれば休み時間や、また放課後に書いておきます。児童詩はいくらでもありますので、何度でも書き直しができます。そして私の板書の練習が何度でもできるわけです。

 5月になると、その他大勢の子どもの眼に輝きが見え始めました。

 6月になると、5人の内、3人までが私の方を向くようになりました。
 4月の初めは、他の子どもにちょっかいをかけたりしていましたが、その他大勢の子どもが先生の話を聞き、楽しそうに勉強している姿に引かれて、少しずつ大勢の子どもの中に入っていったのでした。本当に、5人の内で一番弱そうな子どもから順に大勢の中に入っていったのです。

 10月に5人の内の1人の男の子のお父さんが亡くなりました。校長先生の指にかみついた子どもです。3人家族で、その内のお母さんは長期に入院生活をしていたので、遠方の親戚を頼って転校しました。お父さんのお葬式も近所の人(自治会の世話役の人)がほとんど準備をしてくれました。お通夜に誰か子どもの代表を出すことになりましたが、子どもに聞くと私が私がと言ってくれました。学校での子どもの様子が落ち着いてきたので、他の子どももこの子のことを思いやることができるようになったのでしょう。
 この子は梅雨の頃、教科書もノートもないと言ってきたことがありました。訳を聞くと、昨夜お父さんが荒れて、集合住宅の5階に住んでいたのですが、ランドセルも何もかも、お父さんが窓の外に投げたと言うのです。捨てたでもなく、放り投げたでもなく、投げたと言っていました。雨が降っていたので、全部濡れてしまったと。確かに昨夜はよく雨が降っていました。鉛筆や消しゴムは落とし物をやりましたが、教科書は本屋に言って持ってきてもらいました。代金は親に支払ってもらったと思います。
 この子の母親は近所の病院に入院していたのですが、たまに家に帰ってくることもありました。何をしに帰ってきたかというと、お酒を飲みにということです。ところがそんなことをしているからお父さんのお葬式に、病院は一時帰宅を許さなかったのでしょう。クラスの子どものほぼ全部、その子達の保護者、近所の人たち、学校の先生方と、お通夜には大変な人が集まりました。その中に、お母さんはおらず、お仏前に子どもが一人ぽつねんと座っており、近くに親戚の方らしい人がいました。とても不思議な感じがしました。そして胸を打ちました。

 最後の1人が私の方を向くようになったのは、11月の前半です。半年ちょっとかかったことになります。例の女の子です。放課後、皆が帰った後で私のところへ泣いてきました。「先生、助けて。誰も遊んでくれないの。」と。この子の泣き顔を見たのは後にも先にもこの時だけです。「誰と遊びたいの? よしそれじゃ、一緒に遊んでくれるように、その子に言ってあげる。けれども、あなたにもひとつお願いがあるの。先生とひとつ約束して。」と言って、わがままをしないこと、仲良くするように努力することを約束させました。ちゃんと聞いてくれました。ちゃんと聞くことができるようになるまで半年かかったということです。もちろんこの子に負けないぐらい周囲の子が成長したということもあります。

 1月中頃のことです。放課後、職員室に行って自分の事務机にどっかと座ると、何か足りない、何か忘れ物があるような気がしてなりませんでした。何を忘れたのか一生懸命考えましたが、思い出しません。何か足りないのに、何が足りないのか分からない。そこで、朝からのことを順に振り返ってみました。そうしたら分かったのです。今日は事件が1つもなかったということに。今日は1日平和な日だったのです。ケンカもなく、ものが壊れることもなく、ものがなくなることもなかった、ということに。

 その後は、いつもの学年と同じでした。

 卒業式もしました。どの子も力一杯を出した、立派な卒業式になりました。
 卒業式の後で、4年の時の学年主任の先生が私のところに来て言いました。「あの子達はみんないい子だったからねぇ。」と。私は「なら、自分で担任せぇよな。」と言いかけましたが、口をつぐみました。


 この数年後、新しい学校へ転勤することになりました。転勤先で、まず、3年生を担任させてもらえることになりました。えぇっ、こんなおいしい学年を担任させてもらっていいの、と思ったのをよく覚えています。ところが、学級開きをやってから何か変な感じなんです。子ども達の眼が、そう<魚屋の死んだ魚の眼>をしているのです。それに気づいた時、同僚の先生に「ああ、3年生ね、2年生の時に学級崩壊したのよ。それで誰も持ち手がないの。」ということでした。やっぱりそうだったんだと思ったものでした。
 子ども達が死んだ魚の眼をしている時は、学級が機能しない状態であることを覚えておくといいと思います。そして、その解決には芦田教式に従って授業を、学級経営をしていくことが解決になることも。

 教式は良いものだよ、聞いても分からないが、やればわかる。そう仰っていたのは岩手の山本忠壮先生でしたでしょうか。東京の助松太三先生だったでしょうか。本当にそうだと思います。